
当館から菊池公園への出入り口「武王の門」から出たところが、月見殿跡といわれるところで、西南の開けた景色を一望に収めることができる見晴らしのよい場所です。この地に徳富蘆花の文学碑と同愛子夫人の髪塚があります。愛子夫人の遺髪を所蔵していたのは菊池市上長田の守田昌代さんで、かねて亡夫が蘆花夫妻と親交があり「愛子夫人こそ日本婦人の鑑だ。お前も夫人を見習って婦徳を磨け」と、口癖のように言っていたので、蘆花の墓参りも兼ねて上京しました。このとき、心から思慕し尊敬していた愛子夫人と念願の初対面を果たしたのです。 以来、昌代さんはたびたび上京し、病身の愛子夫人を看護婦の経験をいかして看病し、家事や身辺の手伝いを親身になって尽くしました。戦争が激しくなった昭和19年、これが最後になるかも知れないと、熱海で静養中の愛子夫人を訪ねましたが、そのとき形見に頭髪をもらい受け、肌身離さず持ち続けていたのです。昭和22年、愛子夫人の悲報を受けた昌代さんは、夫人の生まれ育った故郷で蘆花の小説「思ひ出の記」にも出てくる場面の、この地に遺髪塔を建てようと思い立ち、昭和31年11月悲願の「愛子夫人髪塚」の建立が達成されました。
徳富蘆花は気難しく、親や兄徳富蘇峰とも仲が悪かったようですが、愛子夫人とは仲睦まじかったようです。かねて蘆花の創作を手伝っていましたが、この徳富蘆花文学碑の碑文(「思ひ出の記」巻頭の文)は、この地で生まれ育った夫人ならでは到底描写できるものではありません。ちなみに「思ひ出の記」が出版されたのは明治34年、蘆花が夫人の里隈府に初めて訪れたのは12年後の大正2年10月4日のことでした。
参考文献
山中ひとみ「徳富愛子髪塚の由来」武藤光麿「徳富愛子夫人のこと」
荒木精之「蛙の寝言」/前田河広一郎「蘆花傅」