-蒙古襲来絵詞-(もうこしゅうらい・えことば)
当館2階ロビーにある模写したセラミック製陶板画

菊池氏十代武房と竹崎李長の出会いの場
弘安四年(1281年)蒙古の大軍が博多湾、生の松原(いくのまつばら)に上陸、このとき竹房が石積みの防塁に布陣しているとき、竹崎季長が通りかかった場面の門答を画いています。

季長 「誰にて渡らせ給い候ぞ、涼しうこそ見え候え」
武房 「肥後の国、菊池の次郎武房と申す者に候」
季長 「同じき内、竹崎五郎兵衛季長に候」

菊池神社所蔵の原画をそのまま大型陶板に再創作したもので、約50種の釉薬を使用し、更に純金を焼き付けて製作しました。原画は弘安の役を取材し、これに従軍した肥後国の御家人、竹崎五郎兵衛尉秀長の戦闘記録を描いたものであり、文永・弘安の両役に武功をあげました。菊池二郎竹房は博多湾、生の松原に石垣(防塁)を築いて防備していました。


菊池一族の歴史
 初代藤原則隆が延久二年(1070)に大宰府天満宮赤星荘園の荘官として赴任し、菊池市深川(菊池川の右岸)に住居を構えて菊池氏を称え、一族の地名となりました。
 それ以来族称を菊池と呼ばれるようになりましたが、文書に署名するときは藤原姓を使用しています。
 年表によれば、663年に日本軍が百済の白村江の戦いで破れたとき、新羅の侵攻に備えるため筑紫に大野城・基肄城を構築し、さらに後方基地として菊池市から菊鹿町一帯 に鞠智城(久々知城)を設けました。この城主は地方の豪族であり、朝廷と結び付いた大宰府の府官か、郡司などの地方官職を持っていたはずで、伝承の「しょうげんどん」の地 名は「少監殿」に当り、従六位上に相当します。その後朝鮮からの侵攻もなく鞠智城が衰退してきたとき、大宰府安楽寺赤星荘園の府官として赴任してきたのが藤原姓を名乗る菊 池氏で、鞠智城から続いてきた豪族の末裔と考えられます。
 菊池氏の来歴を明らかにしたものに、菊池氏17代武朝が朝廷に差し出した「武朝申状」があります。これを要約すると、中関白 藤原道隆の子である権中納言 大宰権師・藤原隆家の子政則、その子則隆が菊池氏初代で寛仁三年(1014)までの六年間、大宰 権師として九州を統治しましたが、その間北方から女真族が攻めてきた刀伊の乱があり、 武力の勝れた則隆の父蔵規がこれを助けて撃退し、また藤原隆家が眼病を患っていたとき、高麗から薬を取り寄せたりした功績により、対馬守を任命し、藤原の姓を賜ったといわれてます。
 それにしても家柄を貴ぶ当時として、たとえ功績があったとしても藤原姓を与えられるというのはめったにないことで、元々菊池氏は菊池地方を本拠にしていた、鞠智城を背景に武力を備えている豪族ではなかったと思われます。しかも鵞鳥や孔雀を贈ることができたというのは、海上でも大きな勢力を持っていたということで、海外、とくに大陸とも交易を行っていたという文献も残っています。


初代 則隆公

大宰府天満宮領赤星荘の荘官として延元二年(1070)肥後菊池に下向し、菊池川上流の船運に便利な菊池市深川に館を構え、菊池の地名をとって族称とした。荘園経営に熱意を持っていた則隆は、領内に寺社を建立した。墓所は菊池市深川。

六代 隆直公

治承四年(1180)平氏の九州支配に反抗し大宰府を攻めたが、三年後平氏に下り、五年後の壇ノ浦の戦いでは平氏に従い、また敗れた。この両度の戦いで多くの所領を失った。この代に「日足紋」から「並び鷹羽紋」に変わった。

十代 武房公

蒙古が来襲した文永・弘安の両役で奮戦し、弟らと共に勲功を立てたが、この時の様子は「蒙古絵詞」に描かれている。武房としては先代まで失った所領の回復を願っての奮戦だったが、恩賞は北条氏一門に多く与え、武房は不満を残したまま亡くなった。

十二代 武時公

十四歳で跡を継いだ。護良親王の命により、一族を率い博多の北条探題邸に討ち入ったが多勢に無勢、全員討ち死にした。討ち入りに先立ち長男武重を袖ヶ浦に呼び、故郷菊池に帰り再起を図ることを命じた。有名な「袖ヶ浦の別れ」はこの場面である。

十三代 武重公

菊池一族の主力を失い苦難の時期を迎えた武重は、曹洞宗六代大智禅師を迎えて聖護寺を建て、禅の教えを請うた。新田義貞の軍に従い箱根の戦いで考案した千本槍で名を上げ、後に菊池に帰り家憲を制定し一族の団結を図った。

十五代 武光公

菊池本城を実力で取り戻し十五代を継いだ武光は、菊池に征西将軍宮 懐良親王を迎え、南朝方の威勢を示した。正平十四年(1359)筑後川の戦いで親王・武光軍が幕府軍を破り、六年後九州を統一して大宰府に征西府を樹立した。また鎌倉五山にならい菊池五山も制定した。

十六代 武政公

筑後川の戦いで夜襲隊を指揮して味方を勝利に導いた武政は、正平二十二年(1367)十六代を継いだ。隈府城を改修し北宮阿蘇神社を勧請したが、文中二年(1373)武光が戦死して以来、筑前からの敗退が続き、翌年久留米の高良山の攻防戦で戦死した。

十七代 武朝公

父武政の急死により十二歳で跡目を継いだ。幼少のため叔父らの助けを得ながらも、生涯を戦いに明け暮れた。元中九年(1392)南北朝合一後も幕府に反抗を繰り返したが、吉野朝に提出した「武朝申状」は、菊地氏累代の歴史を明らかにした。

二十四代 武包公

菊池家の重臣達は遠縁の詫麿家から武包を迎え、二十四代当主にした。大友氏は当時、豊前・豊後で勢力を伸ばし、筑後・玉名も勢力下に入れ、ついには当主武包を追い出し、大友重治を肥後守護にした。武包は島原に逃れたが、菊池家はこの代で断絶した。